7年前。
長男が小学校4年生だったころに投稿した記事が、Facebookの思い出機能で出てきた。
『先週、授業参観で落ち込んだわたし
でも、長男は今朝、学校に行った
特につらそうでも、無理をしている感じもなく
バタバタと朝の支度をしていたら、こちらが何も言わなくても、家の鍵をランドセルにしまう
学校までは、わたしと、妹、弟と一緒に行く
教室までは一緒に来てほしいというから一緒に行くけど、教室につけばバイバ~イ
下の子たちとゆっくり階段を降りていたら、ダダダダーと走って追いこし、校庭に飛び出す
なにしてあそぼうかな~と走り回っているうちに、音楽が鳴って、あっという間に教室にもどる時間
全速力で昇降口に向かいながら、「じゃあね~」と学校の中に入っていった
予定どおり、4時間授業を受けて、給食食べて、帰ってきたみたい
「もしわたしが長男の立場だったら、つらい」と感じて、母は落ち込んだけど、
長男のほうがずっとずっとたくましい
生きる力
ちゃんとたくわえてるなあ』
(2017年2月27日)
読み返すまで、こんなことがあったことは忘れていた。
たしか、授業参観というのは、「二分の一成人式」だったと思う。
学校を休みがちだった長男だけど、
先生が話をしたら、その会には出たいと言ったので、その会だけ参加しに、私と一緒に登校した。
リコーダーの演奏があることを、先生は事前に教えてくれていなかった。
突然はじまり、みんながスタンバイする中、長男はリコーダーを手にもたされ、吹いているふりだけするよう指示されたようだった。
演奏のあいだ、リコーダーを握りしめたまま、長男はただ下を見つめ、感情を押し殺したような表情で立っていた。
まるで拷問のように、私には見えた。
教師ができるフォローがもっとあったのではないか。
私はいまだに、モヤモヤしている。
そのことについて、当時の担任や学校とは、何も話さなかった。
私はただ、教師と学校への期待をあきらめたのだった。
当時の私は、ただ学校というものに心を閉ざした。
でも、長男は、そのあとも学校へ行ったんだね。
じつは、似たことが、次男でもあった。
3年生のときの、音楽発表会。
リコーダーが吹けない次男と、もうひとりの支援級の女の子は、他の3年生の子どもたちに混ざり、リコーダーをただ手に持って、立っていた。
ふたりは、吹きマネすらせず、
ただリコーダーを手に握り、
キョロキョロ体育館を見ていた。
たとえ「あれ?」って感じても、
「ああ、支援級の子か」と流されるのかもしれない。
でも、わたしはいまだに謎なのだ。
なぜ、あの子たちは、あの場にあんな風に立たせられるのだろう。
吹かないリコーダーを手にもつ必要はあるのだろうか。
リコーダーを吹かなくても、みんなと一緒に音楽を楽しむ方法があるのではないか。
たとえば、リズムにあわせて、からだをゆらすとかね。
「みんなとおなじ」を、なぜそこまで求めるのかな。
4年生の今年も、リコーダーのときには、次男は「吹いているフリ」をして立っていた。
でも、昨年度よりも、「吹いているフリ」が上手になっていた。笑
親の私は、そんな次男に成長を感じつつ、
「みんなとおなじ」がなぜ必要なのかということに、
ひきつづき思いを馳せたい。
「みんなとおなじフリ」って必要ですか?